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男「愛していたんだっけ?」
- 1 : HAM ◆HAM/FeZ/c2 2016/06/19(日) 21:37:33 ID:UVVe14Us
- 「愛していたんだっけ?」
僕がそう言うと、その女性は泣きだしてしまった。
戸惑いもあったが、僕は「やはりな」とも感じていた。
その言葉が彼女を傷つけるという予感があった。
でも、それでも、その言葉が口を突いて出てしまった。
僕は目の前の女性が誰なのか、わからない。
それは、僕がプレイボーイだからではない。
記憶を失ってしまったからだ。
目の前の女性のことも、僕自身のことも、全く覚えていない。
- 3 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/19(日) 21:46:35 ID:UVVe14Us
- 医者に見せられた鏡の中の僕は、しっくりこなかった。
少し癖のある髪も、自信がなさそうな目も、しっくりこなかった。
20歳くらいだろうか。
もう少し歳をとっているだろうか。
それすらも、よくわからなかった。
ただ、僕の意思で鏡の中の「僕」の表情が変わることを、少し気持ち悪く感じた。
手のひらを見ても、体を見下ろしても、しっくりこなかった。
中肉中背。
特徴のない、普通の体だ。
お腹に少し傷痕があるが、医者曰く、やけどの痕のようだ。
昔、やけどをして、皮膚移植をした痕。
もちろん僕には、そんな記憶はない。
傷痕を撫でてみても、まったく感傷はよぎらない。 - 4 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/19(日) 21:52:17 ID:UVVe14Us
- 僕を探しに、病室を訪れた彼女。
彼女が呼ぶ僕自身の名も、しっくりこなかった。
彼女が名乗った名前にも、聞き覚えがなかった。
小さなアパートで一緒に暮らしていたらしいが、まったく覚えがなかった。
ベランダから見る夕陽も、湧いたヤカンも、畳に敷いた布団も、頭に浮かんでこなかった。
ただ、彼女の顔には少しだけ見覚えがあった、気がした。
どこかで見たことがあるような。なんだか懐かしいような。
僅かな感覚。
でも、僕自身に関することよりは、ずっと鮮明だ。 - 5 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/19(日) 21:59:02 ID:UVVe14Us
- どうして記憶を失ったのか、医者も頭を悩ませているらしい。
新しい大きな外傷はない。
脳のスキャンについては、医者も口を濁した。
両親はいないのか、見舞いにも来ない。
僕はどうしたらいいのだろう。
「愛していたんだっけ?」
僕は、この女性を愛していたのだろうか?
なぜそう思いついたのかも、わからない。 - 6 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/19(日) 22:09:45 ID:UVVe14Us
- 途方に暮れて、泣き続ける彼女を見つめる。
僕のことを知るのは、彼女一人だ。
上手く話をして、僕のことをもっと教えてもらわなければ。
そのためには、まず泣き止んでもらわなければ。
僕は記憶を失ったが、女性が一度泣き出すとなかなか泣き止まないことは覚えていた。
そういえば、名前を聞いた時、僕の名字も、彼女の名字も、彼女は言わなかった。 - 7 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/19(日) 22:17:04 ID:UVVe14Us
- 僕は恐る恐る、彼女に名字を尋ねた。
彼女は泣きながら、一つの名前を告げた。
「それは僕の? 君の?」
その問いに、彼女はかぶりを振りながら、小さな声で言った。
「……どっちも、一緒」
「……どうして?」
「……だって、家族じゃん」 - 8 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/19(日) 22:22:47 ID:UVVe14Us
- 家族。
両親は見舞いに来ないが、彼女は僕の家族だという。
そういえば、見覚えのないこともない顔だと思ったんだっけ。
彼女の顔には、どこかしら懐かしい雰囲気がある。
少し癖のある短い髪。
自信のなさそうな目。
小さく結ばれた口。
ああ、そうか。
彼女の顔は、鏡の中の「僕」に似ていたんだ。 - 11 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 21:24:42 ID:l1Osb9BA
- ―――
――――――
―――――――――
何日か経って、僕は退院になった。
彼女と家に帰り、週に一度以上通院する、という条件で。
「自宅療養ってやつか」
「自宅療養ってやつよ」
「まだ全然記憶戻らないのに?」
「身体は健康でしょ」
「頭は不健康なのに?」
「病院に置いておくスペースがないのよ、きっと」
「置く」とはひどい表現だ。
でも彼女は、なんだか少し嬉しそうだった。 - 12 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 21:33:53 ID:l1Osb9BA
- 家への帰り道は、真新しいことだらけだった。
靴が小さくて歩きにくい。
「電車」は知っているが、僕らが乗った車両に見覚えはない。
当然駅の名前も、風景も、初めて見るものだ。
スーパーも、コンビニも、通い慣れた感じはしない。
いつも何を買っていたっけ。
いつも何を好んで食べていたっけ。
それすらも思い出せない。
僕は幼 児のように、彼女をあとをふらふらついていくだけだった。 - 13 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 21:39:19 ID:l1Osb9BA
- アパートの外観にも、きしむ階段にも、ちゃちな表札にも、懐かしさが感じられない。
本当に、僕はどうしてしまったんだろう。
本当の僕は、どこにいるのだろう。
気持ちが悪い。
居心地が悪い。
常に地に足がついていない。
そんな感覚。
ガチャリ、とドアが開けられる。
生活感のある部屋にそろそろと上がり込む。
……部屋の匂いだけは、なんだか僕を安心させた。 - 14 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 21:47:12 ID:l1Osb9BA
- 彼女が呼んだ僕の名前は、なんだか女みたいだった。
どんな漢字を当てるのだろう。
「もしかして僕は、12月24日に生まれたの?」
「……よくわかったね」
「……僕の両親は、随分ストレートに名前を付ける人だったみたいだね」
「……そうね」
「じゃあ君は、3月3日生まれ?」
「そういうこと」 - 15 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 21:56:20 ID:l1Osb9BA
- 「両親はどこに?」
「もういないの」
「……そう」
僕らよりも先に亡くなっていたということだろうか。
彼女だけが病室を訪れていたことを考えれば、納得できる話だ。
このアパートに二人で住んでいたというのも、納得できる話だ。
両親の収入なくして、大きな家やマンションに住むことは不可能だろう。
「大学、休まなきゃね」
そう言って彼女は、少し笑った。
諦めの笑いか。
なんか、そんな感じだ。 - 16 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 22:01:04 ID:l1Osb9BA
- 「僕は大学生だったのか」
「そうよ、まだ20歳よ」
「君は?」
「私はOLよ」
「花の、ね」と付け加えて、彼女はまた笑った。
泣いていた姿からは想像できない、綺麗な笑顔だった。
僕の状態にも少し慣れてきたのだろう。 - 17 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 22:09:18 ID:l1Osb9BA
- 「『君』って呼ばれるの、ちょっとイヤなんだけど」
「……そっか」
「まあ、私のことも思い出せないだろうけど、なんかさ、他人行儀で」
「僕はいつもなんて呼んでたの?」
「『ねぇね』」
「は?」
「『ねぇね』って呼んでくれてた」 - 18 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 22:15:11 ID:l1Osb9BA
- 「恥ずかしくない? それ」
「知らないわよ、あんたが子どもの時からずっとそう呼んでたんだもん」
「ええー」
「ねぇね」か。
そう呼ぶのはちょっと、いやかなり恥ずかしい。
記憶にない女性を気安く呼べるほど、僕は社交的ではない。 - 19 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 22:23:39 ID:l1Osb9BA
- 「……まあ、少しずつ、思い出していこうよ」
そう諭してくれる。
「休学届とか、ややこしいことは、やっといてあげるから」
ありがたいことだ。
「ここでゆっくり、身体も頭も休めて、さ」
何日も病院にいたけれど、不思議と身体は元気だった。
頭は、そうはいかないようだけれど。
「ありがとう」
僕の言葉は、よそよそしくなかっただろうか。
少し居心地が悪くなって、僕は目を逸らした。 - 20 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 22:31:15 ID:l1Osb9BA
- その日の夕食は僕が好きだったというハンバーグだった。
「ほれ、いっぱい食え」
彼女は最初よりも砕けた口調になっている気がした。
笑顔も増えた。
「まーあれだね、記憶ないっつってもさ、退院できたんだから大丈夫でしょ」
「もとの生活をして脳を刺激して、思い出させようってことでしょ」
「だから、大丈夫なんじゃないの?」
「これで効果がないってなったら、きっとまた入院だよ」
「え、それはヤだ」
彼女は、言葉が幼い気がする。
僕と対等に喋るからだろうか?
僕はもうちょっと落ち着いた喋り方をしていると思うのだけれど。 - 21 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/20(月) 22:42:16 ID:l1Osb9BA
- 「おやすみ」
「おやすみ」
布団を並べて横になる。
彼女は明日も仕事だそうだ。
僕は、大学の授業があるのだろう。
でも、こんな状況で学校に行く気にはなれない。
「明日はゆっくりしてて」
そう言ってくれていたし、お言葉に甘えようと思う。
慣れない環境で眠れないかと思っていたけれど、意外とすぐに睡魔が襲ってきた。
そうして僕は、この家で、見知らぬ女性の隣で、眠りに就いた。 - 27 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 20:21:37 ID:f6ZZZEIM
- ―――
――――――
―――――――――
変な夢をみた。
僕と、彼女が、二人並んでいる。
その前に、神様が座っている。
なんだか偉そうな言葉を並べているけれど、何一つ頭に入ってこない。
怒っているような、悲しんでいるような、変な表情を浮かべていた。
僕と彼女はそれを神妙に聞いている。
―――――――――
――――――
――― - 28 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 20:30:22 ID:f6ZZZEIM
- 「おはよう」
「おはよう」
ほぼ同時に目が覚めた。
「ほら、布団畳んで」
「万年床なんて、ダメだからね」
見よう見まねで布団を畳み、片づける。
親戚の家に泊まるような居心地の悪さが少しだけあったけれど、うまくできただろうか。 - 29 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 20:44:31 ID:f6ZZZEIM
- じゅうじゅうと卵が焼ける音と匂いがする。
トーストの香ばしい匂いもする。
カーテンの隙間から入る日差しが健康的だ。
「ほい、朝ご飯」
彼女は二人分の朝食をテーブルに並べ、言う。
「卵に何をかける派だったか、覚えてる?」
彼女はニヤニヤしている。
僕は無意識に手を伸ばしていた。
「塩と胡椒」
それを聞くと、彼女は「やっぱり」と言って嬉しそうに笑った。 - 30 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 20:53:16 ID:f6ZZZEIM
- 「記憶がなくなってさ、あんたが別人になっちゃった気がしてたけど……」
「でもそういうとこ見ると、やっぱ変わってないなって、安心した」
そう言いながら、彼女はケチャップとマヨネーズをたっぷりかけた。
「なにそれ、変な食べ方」
「いいでしょ、ずっと私は、こうなんだから」
味が濃いんじゃないか。
どっちか片方でいいんじゃないか。
そう思ったけれど、それ以上言わなかった。
多分記憶がある頃の僕も、そう言っていただろうから。 - 31 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 21:00:11 ID:f6ZZZEIM
- 「じゃあ、行ってきます」
そう言って彼女は玄関で靴を履く。
「早めに帰るから、それまでゆっくりしてて」
「鍵はそこね、出かけるなら持って出て」
「でもあんまり覚えてないなら、ふらふら出歩いちゃだめよ」
「お昼は冷凍かなんかで我慢して」
「夜、なんか食べたいものある?」
出る直前にも、彼女は色々と喋っていった。
僕は特に食べたいものはなかったので、いつも通りの感じで、と注文しておいた。 - 32 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 21:16:47 ID:f6ZZZEIM
- テレビをつけてみると、外国人が日本人を殺して埋めたニュースをやっていた。
コメンテーターが憤っていた。
街の人のコメントを羅列していた。
ネットの意見を羅列していた。
知事が遺憾の意を示していた。
そのどれにも、見覚えはなかった。 - 33 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 21:24:36 ID:f6ZZZEIM
- お昼のバラエティは主婦向けの内容だった。
まあ、平日の昼にテレビを見る若者は少ないだろう。
商店街でB級グルメを食い歩くお笑いコンビは知っていた。
代表的なコントも思い出せた。
「覚えてることもあるんだなあ」
ぽつりと口に出す。
僕が忘れてしまったものは、一体何だろう? - 34 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 21:33:38 ID:f6ZZZEIM
- 昨日から充電しっぱなしの携帯を、充電器から外してみる。
あれからぼーっとすることが多かったので、携帯をいじる時間はほとんどなかった。
電源を入れてみる。
パスコードを入力する際、なんのためらいもなく僕の指は動いた。
「……覚えてる」
携帯に関することは覚えている。 - 35 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 21:41:17 ID:f6ZZZEIM
- インターネットに接続し、最近のニュースを順に見ていった。
芸能人の不倫スキャンダル。
アイドルのお泊りスクープ。
野球選手のケガ。
知事の汚職。
そのうちのいくつかは僕も知っていた。
入院するより前に起こったニュースだ。
そういえばこんな風に報道されていたな、と思い出すことができた。 - 36 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 21:49:51 ID:f6ZZZEIM
- 僕が忘れていることは、なんだ?
自分のこと。
学生であることも、名前も、顔も、家も、忘れていた。
彼女のこと。
OLであることも、名前も、顔も、関係も、忘れていた。
そのほかには? - 37 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 22:02:49 ID:f6ZZZEIM
- 部屋の中を見回す。
小さなキッチン、本棚、押し入れ、クローゼット。
冷蔵庫、レンジ、壁にかけられているフライパン。
漫画に雑誌に、僕ら二人の写真。
押し入れの中は布団。
僕と彼女の服。
僕はとりあえず、本棚を漁る。
「……読んだこと、あるな」
本棚に並んでいる漫画は、僕が子どもの頃から好きだった少年漫画だった。
大きなサイズになって加筆され再発行されたもので、表紙に覚えがあった。
一冊、目を通し始めると止まらなくなって、僕は夢中で読んでいた。
いつの間にか、主人公の親友が死ぬシーンまでぶっ通しで読んでいた。 - 38 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 22:15:46 ID:f6ZZZEIM
- 「……熱中しすぎた」
ふと時計を見ると、もう昼だった。
冷凍パスタをレンジに放り込み、漫画の続きを読む。
「この後、確か……」
死んだと思った親友と夢の中で会うのだ。
そして、主人公の進むべき道を示してくれる。
生きていた時も夢で会うことがあったが、その夢とこの夢が繋がっていることがここで示される。
「ああ、ああ、そうだそうだ、ここで泣いたんだった」
子どもの頃も、大きくなってからも、同じシーンで泣いた覚えがある。 - 39 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 22:23:34 ID:f6ZZZEIM
- 冷凍パスタを頬張りながら、どんどん読み進める。
やっぱり名作だ。
何度読んでも面白い。
なぜこの漫画があまり有名にならないのか、理解できない。
子どもの頃、これを友だちに薦めてもあまりいい感触は得られなかった。
「あれ」
そういえば、この本棚にあるということは、彼女も読んでいるはずだ。
「なんて言ってたんだっけ?」
彼女はこの漫画に対して、どう言ったのだろう。
気に入ってくれたんだっけ。
それとも微妙な反応だったっけ。
友達に薦めたことは覚えているのに、彼女に薦めたことは覚えていなかった。 - 40 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/21(火) 22:29:34 ID:f6ZZZEIM
- 漫画を読み終えると、家の中を隅々まで探索した。
レンジや調理器具の使い方は覚えている。
冷蔵庫の中にある調味料の味も覚えている。
蛇口のひねり方も覚えている。
だけど買い置きのシャンプーの置き場所は覚えていなかった。
砂糖壺の仕舞い場所も覚えていなかった。
クローゼットの服のほとんどに、見覚えがなかった。
僕の物らしい下着の色さえも違和感があった。
「変な記憶喪失」
そう、なにかが変だ。 - 42 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 19:57:55 ID:HxZEQtoI
- 思い立って僕は、携帯で検索をしてみることにした。
同じような症状の人が世の中にいないかどうか。
医者は明言してくれなかったが、未知のウイルスとか、一時的な現実逃避とか、
同じような症状で困っている人がいるかもしれない。
『変な記憶喪失』
とりあえず、そう検索してみる。 - 43 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 20:04:38 ID:HxZEQtoI
- 膨大な、記憶喪失に関するページがヒットする。
僕にはよくわからない専門用語が羅列されているサイトもある。
記憶喪失をテーマにした小説もたくさん見かけられた。
明らかに創作話と思われるブログもたくさんあった。
「検索条件をもっと絞ってみた方がいいのかな」
今度は『記憶喪失 家族』で検索をしてみた。
これも結果は芳しくなかった。
いずれも「限定的な部分だけ忘れていることがある」「突然記憶が戻ることもある」ということだけはわかった。 - 44 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 20:12:21 ID:HxZEQtoI
- 生活に必要なことは覚えているのに、知識が抜け落ちているというタイプが多いようだ。
例えば、言葉、服の着方、歩き方、身の回りの物の使い方は覚えている。
だけど、自分が誰で、昨日なにをして、家族がどんな顔かを忘れてしまう。
なんだか難しい言葉で説明されているが、僕はこれと同じタイプなのかな、と思った。
少なくとも言葉や携帯の使い方は覚えている。
喋り方を忘れてしまっていたら、誰とも意思疎通ができず、もっと辛い思いをしていたかもしれない。 - 45 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 20:27:21 ID:HxZEQtoI
- 「……僕は喋れる、喋れる、喋れる……」
少し不安になって、言葉にしてみる。
誰も聞いていない。
僕だけの言葉。
「……日本語は忘れてない……」
「あいうえお、かきくけこ、さしすせそ……」
「アメンボ赤いなアイウエオ、浮藻に子エビも泳いでる……」
アメンボも小エビも覚えている。
浮藻というのがどんな姿をしているのかはわからないけれど。
たぶんとろろ昆布みたいな藻のことだろう。 - 46 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 20:58:22 ID:HxZEQtoI
- それからまた、いろいろなサイトの記事を読んでみた。
明るい携帯画面から飛び出してくる嫌な言葉。
ショック。
フラッシュバック。
心的外傷後ストレス障害
医者は脳のことを詳しく話さなかったが、僕の脳に、もしかしたら深刻な障害があるのかもしれない。
「他の病院にも行った方がいいのかな」
セカンドオピニオン、という言葉を思い出す。
僕はまだ、自分の記憶について深刻に考えていなかったようだ。
もっと向きあった方がいいかもしれない。
彼女のことも、ちゃんと思い出さなければいけないかもしれない。 - 47 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 21:03:51 ID:HxZEQtoI
- と、一つのサイトが気になった。
『僕の彼女が、僕のことだけを忘れ去りました』
そんなタイトルの素人のブログ日記だった。
開いてみる。
青空が基調のさわやかなブログの見た目とは裏腹に、淡々と悲しい文章が続いていた。 - 48 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 21:08:26 ID:HxZEQtoI
- 『ある日彼女に会いに行くと、僕を見ても知らんぷりをしました』
『前日に喧嘩をしていたので謝りに行ったのだけれど、まだ怒っていて聞いてくれないのかと思っていました』
『でも話し続けて、本当に僕のことを忘れていることがわかりました』
『彼女の両親は僕のことを覚えているのに、彼女は僕のことをすっかり忘れていたのです』
そんな内容だった。
僕と同じように、生活面で困ることはなく、過去の記憶が一切ないわけでもなく。
だけど恋人のことだけをすっかり忘れている。
僕に似ている。
そう思った。 - 49 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 21:13:40 ID:HxZEQtoI
- 僕の場合は、彼女のことだ。
それがすっぽりと記憶から抜け落ちている。
いや、でも、と思う。
僕は僕の名前も忘れていた。
つまり、僕と彼女と、二人分のことを忘れている。
だけどこのブログの中の女の人は、自分のことは覚えていたようだ。
自分の両親のことは忘れていないようだ。
やっぱり関係ないのか。 - 50 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 21:25:35 ID:HxZEQtoI
- 別に頭を打った訳でもない。
外傷もない。
だけどぽかんと記憶が抜け落ちる。
もしかしてあの女性が、天涯孤独のはずの僕を騙そうとしているのか、とも思った。
だけど現実問題、僕は僕の名前を忘れていた。
彼女の告げた名前と、僕の財布の中の保険証の名前が一致したから、病院は彼女を僕の親族として認めたのだ。
あれ?
そこで僕の思考は一旦停止する。
僕はどうやって、入院したんだ? - 51 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 21:31:05 ID:HxZEQtoI
- 外傷もないのに、なぜ病院にいたんだろう。
その辺の経緯を、医者に聞いただろうか。
聞いたような気もするし、聞いていない気もする。
上の空だったのかもしれない。
ちゃんともう一度、病院で、僕が入院した経緯を教えてもらいたい。
明日、昼のうちに、もう一度病院に行こう。
そう考えて、僕はこめかみのあたりをトントン、と二回指で叩いた。
忘れ物をしないようにするときの、僕の癖だった。
「忘れないための癖は覚えているのに、な」
なんだか笑えてきた。
やっぱり変な記憶喪失だ。 - 52 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 21:39:24 ID:HxZEQtoI
- その日の夕食は、ご飯にみそ汁、肉じゃがだった。
どれも出来合いの物ではなく、きちんと調理されたものだった。
彼女はわりに料理ができるらしい。
「うん、美味しい」
僕は素直にそう言った。
僕がもし、一人暮らしで、記憶を失っていたとしたら、こんな食事にありつけたとは思えない。
「……一人じゃなくて、よかった」
素直にそう言った。
彼女がそばにいてくれて、本当によかった。
彼女は嬉しそうに、微笑んだだけだった。 - 53 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 21:49:31 ID:HxZEQtoI
- 「なにか、思い出した?」
「いいや、でも……」
「でも?」
「覚えていることもあるみたいだ、例えば……」
僕は漫画のこと、身の回りのこと、言葉のことをいろいろ、彼女に語った。
病院に入院した経緯を知りたくて、明日もう一度病院に行こうと考えていることも伝えた。
「それなら、明後日行こう」
そう彼女が言い出した。
「明後日なら、仕事が休みだから、一緒に行けるし」
僕としても異存なかったので、OKした。
確かに一人で行って、ここまで一人で帰ってくる自信がなかった。 - 54 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 22:27:48 ID:HxZEQtoI
- 「き……ね、姉さんは……どういう経緯で病院に来たの?」
「違和感あるわね、その呼び方」
「……仕方ないじゃん……」
「……仕方ないね……ははっ」
そう笑って、彼女は病院に来た時のことを教えてくれた。
職場に病院から電話がかかってきたこと。
どうやら僕が記憶を失っているらしいこと。
身分証明はできても、本人がまったく埒が明かないので来てくれ、という話だったらしい。
「なんの冗談かと思ったわよ」
「ごめん」
「や、謝る必要はないけどね」 - 55 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 22:35:36 ID:HxZEQtoI
- でも、なぜ入院に至ったのかは要領を得なかったらしい。
救急の通報をした人曰く、
街中をふらふら歩いていて、突然叫んで、ぶっ倒れたらしい。
僕が。
僕が?
そんな恥ずかしいことがあったの?
「知らないわよ、又聞きの又聞きなんだから」
そりゃそうか。 - 56 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 22:44:13 ID:HxZEQtoI
- その時に、なにか大きなショックがあって、記憶がぶっ飛んだのだろうか。
大学のある日だったはずなのに、街中をふらふらしていて、急に、倒れて。
ううむ、その日、その時、僕になにが起こったのだろう?
「ショック」という言葉を聞いて、彼女の顔色がさっと青くなった、気がした。
「なにか思い当たる?」
「う、ううん、なんでもない」
彼女は少し動揺していた。
でも、その時彼女は働いていたはずだから、僕の遭遇した「ショック」のことなんて、知りもしないはずだ。
なにを考えたのだろう? - 57 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/22(水) 22:52:32 ID:HxZEQtoI
- なんとなく深く聞けず、それ以上その話をするのはやめることにした。
病院に行くのが一日延びたので、またやることがなくなった。
「明日はどうしよっかな」
そう言うと、さらさらと地図を書いてくれた。
「昔よく一緒に行ったお店、明日の昼にでも行ってみたらどう?」
「なんのお店?」
「お好み焼き」
ああ、それはいい。
お好み焼きは好きだ。
なんとなく、好きだった気がする。
明日やることが一つ決まり、少し安心した。 - 62 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 20:54:50 ID:XCGKHQ/w
- ―――
――――――
―――――――――
また、変な夢をみた。
僕と、彼女が、二人並んでいる。
僕も彼女も、ほとんど裸だった。
その前に、神様が座っている。
昨日よりも、神様の小言が長い気がする。
まくしたてるように苦言を呈している。
やっぱり、なにを言っているのか、よくわからない。
―――――――――
――――――
――― - 63 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 21:03:10 ID:XCGKHQ/w
- そのお好み焼きの店は、電車に乗って二駅ほどのところにあった。
病院よりも近かった。
昔よく行っていたということは、昔住んでいた家もこの近くにあるのだろうか。
一昨日電車に乗った時はなんにも感じなかったのに、そう思いつくと懐かしいような気がしないでもない。
古ぼけた看板、狭い入口、色の薄れたメニュー表、擦り切れたのぼり。
かろうじてなにを食べる店かはわかるが、彼女に薦められでもしなければ、きっと入らないだろう。
小学校が近くにあるらしく、校庭で遊ぶ子どもの声が聞こえてくる。
その声を背に受け、ためらいながら僕はゆっくりと暖簾をくぐった。 - 64 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 21:11:48 ID:XCGKHQ/w
- 「はい、いらっしゃい」
威勢のいいおばちゃんの声が刺さる。
「あら、久しぶり」
ドキッとする。
この人は僕のことを知っている?
「あ、ど、どうも」
言いながら目を伏せる。
僕は覚えてないんです、すみません。
そうは言えない。 - 65 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 21:28:35 ID:XCGKHQ/w
- 「一人? もう大学生だっけね?」
「あ、はい、えっと」
「今日は休みかい?」
「あ、はい、授業がなくて」
僕は一生懸命話を合わせながら嘘をつく。
「なににする?」
カウンター席に付きながら、メニューを見る。
まだなにも懐かしいと感じないが、よく来ていたというのは本当のようだ。
店員さんが僕をこうも覚えているというのは想定外だった。
焦りながらメニューを決める。 - 66 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 22:07:50 ID:XCGKHQ/w
- 「あ、えっと、オムそば……」
僕は無意識に注文していた。
お好み焼き屋なのに、お好み焼きでないものを注文していた。
「あはは、やっぱりね」
店員のおばちゃんは笑って厨房に消えた。
「オムそば、ひとつー!」
『やっぱり』だって?
もしかして、僕はいつもこれを頼んでいたのだろうか。
無意識に、身体が覚えていたのだろうか。
いつものように、さらっと注文したのか? - 67 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 22:19:02 ID:XCGKHQ/w
- オムそばの味は、僕を懐かしい気分にさせた。
ソースの味も、卵の柔らかさも、麺の量も。
確かにこれは、過去、食べたことのある味だ。
僕の好きだった味だ。
「懐かしいかい?」
僕の表情を見て、だろう。
おばちゃんがまた話しかけてきた。
オムそばの味を懐かしんでいる顔をしていただろうか。
「ええ、美味しいです」
無難に答えるしかない。
だけど、うまくやれば、少し情報が得られるかもしれない。 - 68 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 22:25:53 ID:XCGKHQ/w
- 「僕が最後に来たの、いつぐらいでしたっけね?」
これは賭けだ。
この間来たじゃないか、なんて言われたら怪しまれる。
だけど彼女の言葉では、「昔よく行っていた店」だから、きっと子どもの頃のことだろう。
「さあてねえ、小学校高学年くらいまでだったかねえ」
「いっつもオムそばだったねえ」
「お姉ちゃんとお母さんと、よく来てたよ」
「あ、ごめんよ、お母さんのことは、ご不幸だったねえ」
……やはり母は亡くなっているようだ。
……事故か、病気か。
でもここで僕がそれを聞くのは怪しい。
「いえ……」
そう言って微笑むだけにした。 - 69 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 22:48:08 ID:XCGKHQ/w
- 「お姉ちゃんは、どうしてるんだい?」
「働いてますよ」
「ああ、そうかい、そんな歳かい」
「花のOLです」
僕は彼女の受け売りでそう言った。
おばちゃんはころころと笑ってくれた。
『懐かしいねえ』と何度も言ってくれた。 - 70 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 22:56:33 ID:XCGKHQ/w
- 「また来ます」
そう言って、店を後にした。
「いつでもおいで!」
おばちゃんは店の外まで見送ってくれた。
気持ちのいい店だった。
また来たい。
そう思った。
懐かしい、という気持ちもないではないが、『この店が気に入った』という気持ちの方が大きかった。
今度は彼女と一緒に来よう。
そう思った。 - 71 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 23:04:01 ID:XCGKHQ/w
- ―――
――――――
―――――――――
「お好み焼き屋のおばちゃん、僕のことを覚えていたよ」
彼女が帰ってくるなりそう言うと、驚いたようだった。
「わ、マジで!? もう10年くらい行ってないのにね」
「うん、小学校高学年くらいが最後かな、っておばちゃんも言ってた」
「どう? 変わってなかった? おばちゃんも味も」
「覚えてないって」
「あ、そっか」
彼女と普通に会話できるようになったが、やはりまだ違和感が大きい。
僕は正座で、彼女は土足で、話をしているような錯覚をする。
もちろんそんな差異を感じさせれば彼女が悲しむだろうから、僕は努めて平穏を演じているけれど。 - 72 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/23(木) 23:18:20 ID:XCGKHQ/w
- 「なに食べた?」
「……オムそば」
「あー、あー、そうだったそうだった、あんたはいつもそうだった」
「おばちゃんにも、『やっぱり』って言われたよ」
「覚えてたの?」
「無意識に選んでた」
「じゃあ、やっぱり心の奥底に、残ってるのかもね、記憶が」 - 77 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 19:46:37 ID:YJtQOqCg
- ―――
――――――
―――――――――
変な夢がどんどん鮮明になっていく気がする。
僕と、彼女は、どんな罪を犯したのだろう。
神様はなぜ怒っているのだろう。
周りの天使や神官も、神妙な顔でうつむいている。
今日の小言も長い。
ふと下を見ると、僕のお腹には、やっぱりやけどの治療の痕があった。
手で撫でてみる。
夢とは思えない、ざらっとした嫌な感触が指に残った。
―――――――――
――――――
――― - 78 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 19:52:29 ID:YJtQOqCg
- 「実は最近、同じような症例が増えているようでね」
僕を担当してくれていた医者は、言いにくそうに、そう打ち明けてくれた。
「外的ショックもなく、スコンと特定の記憶が抜け落ちた人がね、いるんだよ」
僕に似ている。
ブログの人の事例にも似ている。
「ただね……いや、これはまだ関連付けるわけにはいかないか……」
さらに口を濁す。
気になって僕と彼女は問いただす。
関係ありそうな話は全部聞いておきたい。
僕も彼女も、このまま僕の記憶が戻らないと困るのだ。 - 79 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 20:03:36 ID:YJtQOqCg
- 「どうもね、失うのは記憶だけじゃないようなんだ」
「……?」
「ああ、いや、言葉が足りないな」
ボリボリと頭を掻きむしり、医者はさらに言いにくそうに言葉を続けた。
「例えば、言葉をすっかり忘れてしまった人や、味覚を失った人、聴覚を失った人……」
「ちょちょちょ、それはちょっと違う病気なんじゃないですか?」
「僕もそう思うよ、だけどね、変に共通点があるんだ」
「……共通点?」
「それを確かめるためにも、今日は君の脳をもう一度スキャンさせてもらいたい」 - 80 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 20:18:17 ID:YJtQOqCg
- 入院していたころ、スキャンは一度受けていたけど、その結果はよくわからなかった。
もう一度とって、どうなるというのだろう。
彼女は不安そうに僕を見ている。
僕も不安そうに彼女を見る。
なにか、掘り出してはいけない記憶が、そこにあるような気がする。
モヤモヤと不安が大きく渦巻く。
目を閉じてしまいたくなる。 - 81 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 20:28:14 ID:YJtQOqCg
- 「……結果が出たよ」
「……やはり……同じ症例のようだ」
同じというのは、どういうことだろうか。
「脳にね、植物の芽のようなものができているんだ、ほらここ」
そ、それは、腫瘍とか、そういうことなのか!?
「最近増えている、『なにかを失った』人たちは、みなこのように脳に……」
信じられない、気持ち悪い、頭がぎゅうっと痛くなる。
目の奥が疼いている。
顔の表面がかゆい。
顔の表面がぬるい。
雨が降ってきたのかと錯覚したが、僕の脂汗だった。 - 82 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 20:40:05 ID:YJtQOqCg
- どこをどうやって帰ってきたか覚えていない。
いつの間にか狭いアパートの一室の、布団の上に寝かされていた。
疲れているだろうから、寝て休め、と、彼女に言われた。
入院はしなくていいのだろうか。
「とりあえず、経過観察、だって」
「日常生活は一応送れているから」
「でも定期的に、カウンセリングとスキャン、だってさ」
「とりあえず、今はゆっくり休みな」 - 83 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 20:55:05 ID:YJtQOqCg
- 僕は涙を流していただろうか。
半狂乱になっていただろうか。
単なる記憶喪失で、いつか戻ると、そう思っていたのに。
なんだって? 言葉を忘れた? 味覚や聴覚を失った?
僕もそうなるのか?
脳の障害なのか?
脳の病気なのか?
治るのか?
医者も困惑していたのだから、珍しい症例なのだろう。
僕だって、そんな病気は聞いたことがない。 - 84 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 21:15:29 ID:YJtQOqCg
- ぐるぐる回る頭。
冷えない頭。
流れる涙。
悲しいのかどうかも、よくわからない。
ただ、彼女は気丈に僕の世話をしてくれた。
いつの間にか、眠りに落ちていた。 - 85 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 21:29:44 ID:YJtQOqCg
- ―――
――――――
―――――――――
しばらく、抜け殻のように暮らした。
彼女の作るご飯を食べ、彼女を送り出す。
昼間は家でゴロゴロするか病院へ行くか、その辺をぶらぶらして過ごした。
掃除や洗濯もし、必要であれば買い物にも行った。
笑うことが減った。
彼女も、楽しそうに話すことが減った。 - 86 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 21:42:07 ID:YJtQOqCg
- 記憶が戻る気配はなかった。
そのかわり、言葉は忘れなかったし、味覚や聴覚は無事だった。
怖くなって、時々一人で発声練習をしてみる。
「僕は喋れる、喋れる、喋れる……」
「柿の木、栗の木、カキクケコ。キツツキこつこつ、枯れケヤキ……」
しばらくやって、虚しくなって、ごろりと寝っ転がる。 - 87 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/24(金) 21:54:20 ID:YJtQOqCg
- 彼女の作るご飯は、僕を安心させた。
彼女と話す日々のくだらない話は、僕を和ませた。
彼女と過ごす毎日は、僕の心を温かくさせた。
僕にはなにもなかった。
なにもなかった僕に、たくさんのことを教えてくれたのは、いつも彼女だった。
恩人だった。
それだけだろうか?
かけがえのない人だった。
それで言葉は足りるだろうか?
僕の胸の内に、徐々に大きくなる感情があった。 - 90 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 21:48:40 ID:pgUsGCNg
- ―――
――――――
―――――――――
「僕に恋人はいなかったの?」
その質問に、彼女はびくっと顔を上げた。
「い、いなかったと思うけど」
探るような目。
まあそうか。
いたらいたで、とっくに連絡が来ているだろう。
もちろん記憶を失ってから、そういった女性からの連絡はない。 - 91 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 21:54:07 ID:pgUsGCNg
- 「姉さんは?」
僕はご飯を口に運びながら、軽い口調で聞いてみた。
これまでの同居生活で、一度もそういう雰囲気は出さなかったので、多分いないと思う。
「いませんけど、なにか問題が?」
「ありません」
ちょっと怒ってる。
可愛い。
箸をちょっと噛んでいるのも、可愛い。 - 92 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 22:00:57 ID:pgUsGCNg
- 僕の中で、少し自分の記憶についての諦めがついた。
この間、ニュースで見た、記憶喪失についての話題のせいだ。
『記憶喪失の疑いが持たれる芸能人が、増えています』
僕だけじゃなかった。
一般人だけじゃなかった。
他にもいたんだ。
それも、こんなにぞくぞくと。 - 93 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 22:15:42 ID:pgUsGCNg
- 不明瞭な政治活動費の使い道についての、政治家の釈明報道。
ファンとのお泊りデートをすっぱ抜かれた、アイドルの釈明報道。
どちらも、「記憶にない」と答えていた。
誰もが、見苦しい悪あがきだと感じていただろう。
だけど、それは真実だった。
「記憶にない」ことが、どうやら本当らしいということだった。
政治家の金の使い道は確かに不誠実で、お泊りデートは確かに行われたようだったが。 - 94 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 22:25:40 ID:pgUsGCNg
- 不倫した芸能人は、相手に奥さんがいることを知らなかったらしい。
本当に知らなかったのか、それともその記憶を失ったのか。
都合良くその記憶だけを?
それが、あり得るのではないか。
その記憶だけを、うまく消去することが、できるのではないか。
……僕みたいに。 - 95 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 22:35:35 ID:pgUsGCNg
- 「姉さん、好きな男はいるの?」
「……」
「僕は、好きな女性はいなかったのかな?」
「知らないよ、自分の胸に聞いてみな」
つれない返事だ。
だけど、僕は自分のことを覚えていない。
だから彼女に聞くしかない。
「僕は、姉さんのことが好きだったんじゃないの?」 - 96 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 22:45:23 ID:pgUsGCNg
- バンッ!!
机が叩かれた。
彼女の顔色が蒼白になっている。
目を見開いて、机を見つめている。
でも、僕は冷静だった。
「その話はしないで」
彼女も、努めて冷静に、声を絞り出した。 - 97 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 22:57:18 ID:pgUsGCNg
- 「僕はさ、姉さんのことが好きだったんだよね?」
「やめて」
「それとも、秘密にしていたのかな?」
「やめてってば! 大体記憶を失くしたくせに、なんで覚えてるのよ!?」
「覚えてないよ」
「じゃあなんで……」
「僕が今、姉さんのことを……好きになりかけてるからだよ……」
息を飲んだ音がした。
つばを飲み込む音がした。
僕は罪深いだろうか。
それとも、素直で正直だろうか。 - 98 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 23:29:27 ID:pgUsGCNg
- 「悪い冗談ね、早く忘れて」
さっさと食卓を片付け始める。
僕の目を見てくれない。
「正直な気持ちを、言ったつもりなんだけど」
「それは胸の奥深くに仕舞っておくべき気持ちよ」
早口で言われた。
「決して誰にも、私にも、言うべきじゃなかったの」
「言うべきじゃなかった? それって……」
ハッとして、彼女は口をつぐんだ。
僕もだんだん、どうして記憶を失ったか、わかる気がしてきた。 - 100 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 23:42:18 ID:pgUsGCNg
- 「僕は拒絶されたんだ、そうでしょ?」
「記憶を失う前に、今みたいに」
「やっぱり記憶を失う前の僕も、好きになっていたんだ」
「だけどきっとひどく拒絶されて」
「それがショックで」
バチンッ!!
ショックを受けた。
目の前が赤く染まった。
彼女に頬を引っ叩かれたんだってことはわかったけど、一瞬すべてが静止してしまって、動けなくなった。 - 101 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/25(土) 23:59:07 ID:pgUsGCNg
- 「ごめん、ごめん、ごめんね……」
「でもダメなの、私たちは」
「気持ちは嬉しいけど、ダメなの」
「それ以上言わないで、私のせいだってわかってる」
「記憶を失うほどのショックを与えたのは、私だって、わかってるの」
叩いた手のかたちはそのままで、彼女は涙を流して謝った。
堪えようとしても堪えられないらしい。
どんどん溢れてくる。
僕も、茫然と彼女の言葉に耳を傾けていた。
頬がピリピリと痛い。 - 102 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/26(日) 00:14:28 ID:PgWqWv1A
- 「ごめんね、あんたの気持ちには応えられない」
二度も彼女に拒絶させてしまった。
それは、きっと辛いことだろう。
その日、僕たちは背中を向けあって眠った。
明日、どんな顔をして謝ろう。
二度も好きになってしまった僕を、彼女は受け入れるだろうか。
腫物のように扱うだろうか。 - 103 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/26(日) 00:23:03 ID:PgWqWv1A
- 僕はきっと、望んで今のように記憶を捨てたんじゃないだろうか。
好きだったことを忘れられれば、辛い気持ちを忘れられるから。
ニュースで報道される芸能人や政治家のように。
忘れられれば、自分が楽だから。
でもそのかわり、彼女をまた傷つけてしまった。
苦しめてしまった。
それが僕にも、辛い。
明日、どんな顔をして謝ろう。
明日、どんな顔をして謝ろうか。
そればかり考えながら、僕は眠りに落ちていった。
彼女の寝息は、聞こえなかった。 - 110 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/27(月) 20:22:10 ID:6YY4feso
- ―――
――――――
―――――――――
夢の中で神様が言った。
今度はちゃんと聞き取れた。
「もう、お前たちは十分に罰を受けただろう」
「あとは知らん。好きにするがよい」
そして立ち上がり、背を向けた。
周りの天使や神官も、神様についていく。
僕らは二人、取り残された。
真っ白な空間に。
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
許されたのか、見放されたのか。
わからない。
―――――――――
――――――
――― - 111 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/27(月) 20:31:49 ID:6YY4feso
- ―――
――――――
―――――――――
「おはよう」
僕は努めて明るい声で言った。
彼女の顔をまっすぐ見るのが怖かった。
彼女はゆっくりと瞼を開け、当惑の表情を浮かべ、こう言った。
「……誰?」 - 112 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/27(月) 20:41:13 ID:6YY4feso
- 困惑した。
悪い冗談だ。
「僕のこと、忘れたの?」
笑ってそう言ったが、少し声が震えた。
彼女はまだ笑わない。
「あれ……昨日……?」
眉をしかめる。
昨日のことを思い出そうとしているのだろうか。
酒なんて、昨日は飲んでいないのに。
「え……思い出せない……」
「あなた……誰? 私は……誰?」
僕は、もしかして僕も最初はこういう顔して困惑したのかな、と場違いなことを空想した。
彼女はまだ、笑わない。 - 113 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/27(月) 20:50:49 ID:6YY4feso
- 「……愛していたんだっけ?」
「っ!?」
その言葉には覚えがある。
彼女の口からそれがこぼれるとは思いもしなかったけれど。
「……愛されていたんだっけ?」
僕は言葉を失った。
なにも言えない。
彼女になんて言ってあげればいいのかわからない。
だから、そっと抱きしめた。 - 115 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/27(月) 21:04:54 ID:6YY4feso
- 少し体を固くした彼女だったが、やがておずおずと手を回してきた。
「大丈夫、僕がついてるから」
「心配しなくていいから」
「今までしてもらったこと、今度は僕がしてあげるから」
「だから、ね、心配しないで」
僕たちは、布団の上でしばらくそうしていた。
昨日まであんなに頼りがいのある人だったのに、今はこんなにも弱く脆い生き物に見える。
僕が、今度は、彼女の為にしてあげる番だ。 - 116 : 以下、名無しが深夜にお送りします 2016/06/27(月) 21:14:50 ID:6YY4feso
- 「僕の名前は……」
僕は、彼女から教わった僕の名前を告げた。
それから、少しいいことを思いついた。
彼女に告げる、彼女の名前。
少し、嘘をついてみようかな、なんて考えたんだ。
「君の名前は、『アダム』だよ」なんてね。
★おしまい★ - 117 : HAM ◆HAM/FeZ/c2 2016/06/27(月) 21:24:02 ID:6YY4feso
- これはやっぱりバッドエンドなんでしょうか
本当は始めの7レスくらいで終わらせるショートショートでしたが、なんやかんやでこういうお話になりました
∧__∧
( ・ω・) ありがとうございました
ハ∨/^ヽ またどこかで
ノ::[三ノ :.、 http://hamham278.blog76.fc2.com/
i)、_;|*く; ノ
|!: ::.".T~
ハ、___|
"""~""""""~"""~"""~"

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